超々ジュラルミン本史(2)

ー超々ジュラルミンの零式艦上戦闘機への適用ー

本史(1)では超々ジュラルミンの発明の歴史を概括したが,ここではどのようにして零式艦上戦闘機に採用されたかを述べる。この零式艦上戦闘機の設計主務者は,2013年公開されたアニメーション映画「風立ちぬ」の主人公である堀越二郎である。彼は零戦の軽量化を徹底して行っていたが,この頃丁度開発された超々ジュラルミンとの出会いがあり,30kgの軽量化が図れることがわかり,この合金を零戦に採用した。米軍はこの零戦を捕獲し徹底してその弱点を調べた。この中で,この超ジュラルミンをも凌ぐ高強度アルミニウム合金が使用されていることに驚き,Alcoaに超々ジュラルミンと類似の合金を開発させた。これが現在も使用されている7075合金である。超々ジュラルミンが7075合金の生みの親であるといえよう。超々ジュラルミンの開発後も官民で新合金が検討された。また零戦にはジュラルミン製のプロペラも搭載された。(出典等の詳細は「資料室」「超々ジュラルミンと零戦(2)」の文献参照のこと)

 

堀越二郎と零戦

七試艦戦から九六式艦戦まで

図1 堀越二郎が設計した艦上戦闘機3) (a),b) 野原 茂:「堀越二郎と零戦」,歴史群像8月号別冊,学研パブリッシング,(2013), 56, 59より, c) http://www.mhi.co.jp/cats/airplane/photo/presea/96sento.htmlより転載)
図1 堀越二郎が設計した艦上戦闘機3) (a),b) 野原 茂:「堀越二郎と零戦」,歴史群像8月号別冊,学研パブリッシング,(2013), 56, 59より, c) http://www.mhi.co.jp/cats/airplane/photo/presea/96sento.htmlより転載)

宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」が描いていた航空機は,零戦ではなく,そこに至るまでの七試艦戦(七試艦上戦闘機,「七試」は昭和7年度に海軍が試作発注したことを示す。図1a),九試単戦(九試単座戦闘機,図1b)である。九試単線の成功で九六式艦上戦闘機(「九六式」は1936年(皇紀2596年)度に海軍が制式採用したことを示す。図1c),十二試艦戦を経て零式艦上戦闘機(1940年(皇紀2600年)制式採用。末尾の零をとって「零式」とした)へと繋がる。

 

1932年(昭和7年)試作発注された七試艦戦は,この映画の主人公,三菱(1920年三菱内燃機製造→1921年三菱内燃機→1928年三菱航空機→1934年三菱重工業と社名が変遷,以下三菱と記す)の堀越二郎(注,図2),が設計主務者として初めて手がけた金属構造を持つ単葉戦闘機であった。先進的な低翼単葉機ではあったが,主翼は全金属製ではなく金属骨格に麻布を張った羽布張りという中途半端な構造であった。

 

 

図2 堀越二郎
図2 堀越二郎

(注)堀越二郎

 1903年6月22日,群馬県藤岡市に生まれる。1924年東京帝国大学工学部航空学科に入学。1927年東大航空学科第五期生の9人の一人として卒業し,同年三菱内燃機株式会社に入社。1929~1930年,欧米視察。ドイツのユンカース社,アメリカのカーチス社にて機体技術を研究。1932年,七試艦上戦闘機の設計主務者に抜擢される。七試艦戦は失敗に終わったが,その大胆な挑戦は低迷していた三菱に技術的飛躍をもたらし,1934年,再び九試単座戦闘機の設計主務者に任じられた。制式採用された九六式艦上戦闘機は海軍の期待をも上回る高性能を実現して傑作機となり,1937年,十二試艦上戦闘機の設計主務者となり,零式艦上戦闘機を開発した。その後,1940年,十四試局地戦闘機(雷電),1942年,十七試艦上戦闘機(烈風)の設計主務者となった。1944年12月,病に倒れ,約半年静養。1945年三菱重工業参事。1963年,新三菱重工業参与で退職。1964-1965年,東京大学宇宙航空研究所講師。1965年東京大学工学博士授与。1965-69年,防衛大学教授。1972-73年日本大学理工学部,生産工学部教授。1973年勳三等旭日中綬章。1982年1月11日逝去。享年78歳。

 

 

当時まだジュラルミンの大きな押出形材が容易に入手できなかったため,主桁は重量的に有利なジュラルミンの押出形材ではなく,薄板の重ね合わせでリベット留めとなり,片持ち式主翼に十分な強度を与えようとして必要以上の厚さとなった。また大直径の主車輪を支える旧式構造の脚柱とそれを覆うスパッツも見るからに空気抵抗の大きなものとなった。堀越は,「胴体は不恰好で,どうひいき目に見ても全体がどことなく調和がとれていなかった」として,この試作機を「鈍重なアヒル」とか「醜いアヒルの子」と自嘲した。この試作機は分厚い主翼,太く無骨な胴体,太い主脚といった空力的に不利な構造のため,目標とされた350km/hの速度に達せず,また墜落事故も起こして失敗作となった。

 

三菱も中島(中島飛行機)も七試艦戦ではともに不合格となったため,1934年(昭和9年)あらためて試作機が発注されたのが九試単戦である。七試艦戦の苦い失敗の反省から,堀越は当時の最新の技術をこの九試単戦に全面的に取り入れた。分厚い金属骨格羽布張りの主翼は押出形材でできた主桁を持つ全金属製の薄翼に置き換えられ,主脚も小さな直径の車輪と単支柱を組み合わせて細くまとめ直され,逆ガル形式の主翼とし主脚を短くして重量を軽減した。また細部に至るまで流線形化を図り,表面の空気抵抗を抑えるため皿頭にした沈頭鋲を初めて採用した。エンジンも軽量で大馬力を発揮する中島製「寿」五型として,最大速度450km/hを出すことが出来た。

 

この九試単戦は1936年11月制式採用され,九六式艦上戦闘機となった。九六式艦戦と九試単戦は必ずしも同じではなく,主翼の逆ガルは航空母艦での着艦の際,安定性を失う危険があるため通常の楕円翼に,胴体も細長いため無線電話装置などの搭載が困難で太く再設計された。主脚も胴体に対応して太目の固定脚となった。九六式艦戦の性能は「世界の水準に追いついた。あるいは追い越した」との高い評価を得た。この九六式艦戦の成功で,次の十二試艦戦(零戦の試作機)の開発に繋がった。

 

九試単戦に採用された押出形材

前述のアニメの中にL字型の押出形材が出てきて,「軽いな,ジュラルミンの押し出し材とはぜいたくなものだ・・・」と宮崎は語らせている。この九試単戦の主翼桁材に用いられた押出形材に関して,堀越は「翼厚を薄くできたのは,外板をジュラルミンとし,かつ桁フランジに厚い押出形材を採用することができたからである」と書いているが,厚い押出形材がどのような合金であるのかは明瞭に書いていない。ただ,十二試艦戦での超々ジュラルミンの採用時に,堀越は「主桁の上下縁材とウェブ板だけにESD材を使ったとしても,従来のSD材に比して,十二試艦戦で300kg(原文ママ,30kgの間違いか)の重量節減が可能であった」と書いており,九試艦戦で用いられたのはSD,すなわち超ジュラルミンであることが推測される。

 

柳田邦男は,「零式戦闘機」(文春文庫)の中で次のように書いている。堀越の言葉として,「七試のときにはなかった桁フランジ用の押出形材もできるようになったし,強度の大きい新しいジュラルミンも開発されたというから,今度は金属張りの薄翼を作れると思う。これは大事なことなので,自分で住友金属まで行って調べてくるつもりだ」(p.164)と言って,実際に大阪の住友金属まで出張しているとのこと。「堀越がいま九試単戦に使おうとしている新しいジュラルミンとは,一平方ミリ当たり45キログラムまでの張力に耐えられる,強度の大きな軽合金で,「45キロ超ジュラルミン」あるいは「SDH」と呼ばれていた。」(p.166)と書かれている(注,SDHとは焼入れ後室温時効硬化させた材料のこと)。この記述が間違いないとしたら,あのアニメに登場してくる押出形材はジュラルミンではなく,超ジュラルミン,一般的にはよく知られている24S(2024)合金ということになる。

 

ところが問題はそう簡単ではない。住友軽金属(住友金属からアルミと伸銅部門が昭和34年(1959年)に分離してできた)の年表には「松田は,再び24S系の工業化の研究に移り,昭和10年(1935年)4月ころ,それに成功,のちに24S系のものを超ジュラルミンと呼ぶようになった」とある。九試計画が海軍航空本部から通知されたのは昭和9年(1934年)2月はじめで,基本設計がまとまったのは3月後半とのこと,設計開始からわずかに10ヶ月後の1935年1月に1号機が完成している。この1号機に24S系超ジュラルミンが用いられているとしたら,少なくとも半年から一年前には工場試作なり製造技術が完成していないと実機には適用できないと考えられる。また海軍の軍用機であるので,海軍の材料規格制定も必要である。

 

1934年当時の研究報告書を見る限り,住友ではドイツの681ZBやDM31合金と同様に焼入れ焼戻しする含ケイ素超ジュラルミンが研究開発の対象であり, SD(Al-4.2%Cu-0.75%Mg-0.7%Mn-0.7%Si),またSA1(Al-1.2%Mn-0.8%Cu)を被覆した合わせ板をSDCと称して,これらの合金を社内で制定したばかりで,これらの合金の評価を専ら行っていた。したがって,1934年に試作された九試単戦主桁に使用された押出形材は上記の含けい素超ジュラルミンSD(Al-4.2%Cu-0.75%Mg-0.7%Mn-0.7%Si)と推定される。

 

しかしながら,1935年5月頃からの報告書を見ると,T3およびT3C合金の試験結果が報告されるようになる。T3押出材の成分はAl-4.14%Cu-1.36%Mg-0.68%Mn-0.14%Si-0.28%Feで,まさに24S合金である。この頃から,住友は超ジュラルミンに関して,大きく舵を切ることとなる。24S型超ジュラルミンT3はSD,その合わせ板T3CはSDCと称されるようになった。SDCの皮材はSA3(Al-1.5%Mn-0.55%Mg)合金で,Alcoaの24SCより高強度の合わせ板となった。1935年,Schleomann社製2000トン横型水圧押出機(複動型)が設置された。住友の超ジュラルミンSD(24S)は,1936年制定の全金属製低翼単葉機の九六式艦上戦闘機に採用され,軍用機全盛時代の需要期を迎えた。

 

零式艦上戦闘機

1)十二試艦上戦闘機

1937年10月6日,三菱重工業名古屋航空機製作所の堀越二郎は課長からカナまじりの和文タイプで打たれた一通の書類を受け取った。それは,「十二試艦上戦闘機計画要求書」であった。「十二試」とは昭和12年試作発令,艦上戦闘機とは航空母艦上から発着する戦闘機のことである。堀越は「この要求書は,当時の航空界の常識ではとても考えられないことを要求していた。もし,こんな戦闘機がほんとうに実現するのなら,それはたしかに,世界のレベルをはるかに抜く戦闘機になるだろう」と述べている。その要求書は表1に示すような内容である。この十二試艦上戦闘機はのちに太平洋戦争前期には空の王者として君臨した「零戦」の試作段階の呼び名であった。

 

表1 十二試艦上戦闘機計画要求書
表1 十二試艦上戦闘機計画要求書

 

このような要求が出てきた背景には,当時,日華事変での戦闘機の護衛なしで裸同然の出動した日本海軍自慢の新鋭攻撃機が,予想に反して迎え撃つ敵の戦闘機にばたばたと落とされる事態が起ったためである。そこで大型機を落とすために20ミリ機銃を持ち,同時に,攻撃機を護衛までして敵地まで長距離を往復し,しかも,そこで待ち構えている敵の戦闘機に打ち勝つ空戦能力をもたせたいという要求が出てきた。

 

当時,三菱の設計主務者の堀越は,この機体の設計の問題点を四つに整理していた。第一にエンジンの決定。第二にプロペラの選択,第三に重量軽減対策,第四に空力設計,つまり機体の空気抵抗を少なくし,同時に理想的な安定性,操縦性を実現することであると。第一のエンジンは重量の軽い三菱製「瑞星」を使うことに決め(その後,試作三号機より馬力の大きい中島製「栄一二型」に換装),第二のプロペラは新式の定回転プロペラの使用することになっていた。このプロペラ製造に関しても住友金属は活躍することになるのであるが,これは後述する。最大の難関は第三の重量軽減対策であった。このため一律であった安全率の見直しや,グラム単位での重量軽減のために,「肉落とし」と称して,強度に関係のないところをくりぬくことも行われた。重量の軽減には,このほか,どのような材料を使うかということもおおいに関係がある。

 

特に,内部構造で最も重要な主翼の桁についても,可能な限り軽くてしかも強い材料を使いたかった。前の九六式艦戦のときは45キロ超ジュラルミン(SDH)が開発され,その押出形材が生産されていたので,翼を薄くし,重量軽減に大いに役立った。十二試艦戦では,機体がさらに大きくなるため重量増加が避けられない。九六式艦戦と同じ超ジュラルミンでは,桁用の押出形材を分厚くしなければならずその結果重量増加につながり,桁の部分が分厚くなると翼も厚くせざるをえなくなり,いっそう悪くなると考えられた。

 

2) 超々ジュラルミンとの出会い

従来のジュラルミンを更に改良したものか,あるいは,別のもっとすぐれた軽い金属はないだろうかを堀越が考えていたところに次のような住友のESDとの出会いがあった。

「ある日,会社の材料購入を担当している木村技師が,堀越氏の机にぶらりとやってきて,次のような話をしていった。『堀越さん,いま住友で非常に強い新しい合金ができかかっているらしいですよ』と。話によれば,従来のジュラルミンの成分を少し変えて,強度の高い材料を開発し,試験的に生産に入れる段階だという。私はこの話におおいに興味をそそられた。そこで,住友金属に問い合わせると,担当者が直接私に説明しながら,実物を見せたいという返事がきた。早速,大阪の住友の工場に飛んでいって,五十嵐博士と小関技師から『60kg/mm2の強度があることについては,住友として責任を持って保証できます。海軍の材料規格にはまだ採用されていませんが,時期割れの問題は,押出形材に関する限りすでに技術的には解決しています』との説明を聞き,実物を見せてもらっているうちに,私は,これは使えるぞ,と判断した。そして,この新材料を使用するにあたって,注意しなければならない点をよく聞いてきた。私は,さしあたり,主翼の桁だけに押出形材を使うとして,大まかに重量を計算してみると,30kgは軽くなることがわかった。そこで,会社からこの新しい金属の使用を航空本部に願い出た。すると,航空本部でもすでにこの金属に注目しており,許可する一歩手前まで来ていたとのことだった。海軍側はむしろ願い出を喜んで,この新材料の使用を認めてくれた」。

 

第四の空力設計は,胴体の形状,主翼の断面と面積,翼端の形状,尾翼の大きさと形状などを検討し,最適な形状を決めていった。空気抵抗を減らすために,引き込み脚や沈頭鋲が採用された。

かくして,堀越の言によれば,「千篇一律的な安全率の規定を洗い直して,新たな合理性のうえに設計方針を立てるという冒険的方法にはじまって,超々ジュラルミンの採用という,日本の航空機史上画期的な事件にいたるまであらゆる手段を研究し取り入れ」て,1939年3月試作第一号機が完成した。試作機は数個の部分に分解され梱包されて,3月23日午後7時過ぎに,牛車2台に分載されて,名古屋市の南はずれ,港区大江町の工場を出発,名古屋市内を夜のうちに通過し,小牧,犬山を経て,まる一日がかりで,約48kmはなれた岐阜県各務原飛行場の片隅に或る三菱の格納庫に着いた。

 

初飛行は4月1日で,ほぼ満足のいく結果も得たが,問題点も明らかとなった。その後,特に設計要件の見直しをすることにより操縦応答性の面で画期的な進歩を遂げた。1940年4月末までに十二試艦戦を前線に送ろうとしていた矢先, 3月11日,十二試の2号機が横須賀で空中分解して,パイロットが殉職したとの連絡があり,この原因解明が緊急に必要になった。3月16日,検討会が開催され,機体強度研究の主任である山名正夫技師が,十二試艦戦で始めて採用した超々ジュラルミンESDの主翼桁の疲労強度に疑わしい点があることと,外板打ち付けのための沈頭鋲が外板にしわが寄るほど強い力が加わったときに,抜けるおそれがあるのではないかといって,主翼が単なる衝撃で折れたのか,ESDの時期割れか金属疲労によるひびが入って飛行中に折れたのか実験中であると述べた。

 

3月18日の空技廠の事故調査委員会で,折れていた主翼桁の破断面を観察した結果,心配されていた超々ジュラルミンの時期割れの現象は起っていなかったことが確認されたこと,さらに疲労試験も行なったところ,空中分解となるような疲労破壊も起っていなかったこと,ただし桁の削り落とし部分は,段付のシャープコーナーになっているため耐用時間が予想よりかなり短いことが明らかとなった。枕頭鋲も今回の事故と関係がないことが明らかとなった。他に先駆けて採用した超々ジュラルミンに濃厚な疑いをかけられたが,「シロ」ということで落着したが,切り欠き疲労強度の低下はそれ以降のコーナーの形状変更となった。この事故の原因は昇降舵マスバランスの横揺れ振動が繰り返し起り,次第にその腕に疲労破壊が生じてマスバランスが脱落して,その後尾部でフラッターが起り,空中分解したとの結論に達した。空技廠の川村も「主翼の破面が材木を折ったような破面なんで,飛行機の落ちた原因はESDのシーズンクラック(時期割れ)ではないかと随分突っ込んで調査した」と述べている。

 

堀越はこうした殉職も伴いながら,十二試艦上戦闘機の改修を続けた。海軍は制式化前であったが長距離飛行が可能な10数機の十二試艦上戦闘機を中国大陸に配備し,実戦使用しながら現地で改修作業を行い,1940年7月,十二試艦戦は零式一号艦上戦闘機の名称で制式採用された。 9月の重慶への侵攻では,13機の零戦で27機の中国空軍機を全機撃墜するという大きな戦果を上げた。表2に九六式艦上戦闘機と十二試艦上戦闘機の性能の比較を示す。

表2 九六式艦上戦闘機と十二試艦上戦闘機の性能の比較
表2 九六式艦上戦闘機と十二試艦上戦闘機の性能の比較

 

3)零式艦上戦闘機

図3 零式艦上戦闘機二一型(A6M2b)18) (野原 茂:「零戦の系譜図」,枻文庫,(2008),16より転載)
図3 零式艦上戦闘機二一型(A6M2b)18) (野原 茂:「零戦の系譜図」,枻文庫,(2008),16より転載)

1940年7月,十二試艦戦は制式機として採用され,その年が日本紀元2600年であったところから,その末尾の零をとって,「零式一号艦上戦闘機」と名付けられた。「零戦」とは「零式艦上戦闘機」の略称である。「ゼロ戦」というのは外国のパイロットから「ゼロ・ファイター(Zero Fighter)」,-「ジーク(Zeke)」と呼ばれ,外国の評判などから戦後生まれた零戦の愛称といわれているが,実際は「れいせん」,「ぜろせん」どちらの呼び方も使用されていたようである。型式は,1942年の夏に最初の数字が機体の変更を,二つ目の数字がエンジンの変更を表す呼び名となり,二一型(図3)は二つ目の機体に一つ目のエンジンを搭載していることを意味する。

海軍航空本部は大陸での零戦の目覚ましい活躍でその性能の優秀さを認め,中島飛行機にも零戦を生産させる事を決めた。これは,三菱の量産能力に対し,当時最新鋭だった新設の小泉製作所に,アメリカ流のオートメーション生産ラインを整えた中島飛行機の量産能力が高く評価されたためである17)。こういう場合,「製造権や特許権の問題は,民間同士に於ける場合とは違い,開発を担当した会社に対して適当な額の報償を支払い,海軍が指定した製造を受け持つ会社にいっさいの技術資料と技術援助を与えること」で決着がついた。第67号機以降は,艦上での取り扱いやすいように,左右の翼端を折り曲げられるようにした零式艦上戦闘機二一型に変更された。その後,主翼翼端の折りたたみ機構を廃止し,高高度では回転数を高い方に切り替えができる二速過給器付きの中島製「栄二一型」エンジンに替えた零戦三二型となった。図4は零戦主翼の図版と主桁の断面図である。「前桁縁線」「後桁縁線」とあるのが,超々ジュラルミンが採用された2本の主翼主桁である。

図4 零戦主翼の図版と主桁前桁の断面図
図4 零戦主翼の図版と主桁前桁の断面図

 

4)米軍による零戦の性能の解明

1941年12月太平洋戦争に突入し,真珠湾攻撃やフィリピン進攻,翌年3月のジャワ作戦,インド洋作戦に至る太平洋戦争中盤までは,その性能を発揮し華々しい成果を上げた。1942年6月のミッドウェー海戦での敗北が太平洋戦争の転回点となった。同時に行われたアリューシャン作戦で,無人島に不時着したほとんど無傷の零戦一機をアメリカが手に入れた。「アメリカは,真珠湾攻撃以来,落ちた零戦の切れ端を集めてまでも,謎の飛行機といわれる零戦の秘密を解き明かそうとしていた」。そして,この完全な零戦に飛行試験を含むあらゆる角度からの調査を施し,その長所と短所を完全に知る事ができた。

 

調査の結果は,新戦闘機の設計の上でも,零戦との戦術の上でも非常に大きな役割を果たす事になったといわれている。すなわち,零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能を持つ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があること,装甲板・防弾燃料タンク・防弾ガラス・自動消火装置などが搭載されておらず防御性能の弱いことが判明した。この結果,零戦と普通に戦っては勝ち目のなかったF4Fワイルドキャット戦闘機は急降下し接近して銃撃し,優位速度を維持したまま旋回・離脱、再度急上昇し優位高度を回復する一撃離脱戦法と2機編隊を組んで攻撃するサッチウィーブなどの戦法をとって,零戦に対して優位に立った。このため零戦の翼幅を12mから11mに短縮し,ロケット排気管を採用し最大速度565km/hが出せる五二型に改良された。

 

1943年9月にはアメリカ海軍の新戦闘機グラマンF6Fヘルキャットが「打倒零戦」のかけ声とともに登場してきた。運動性能に優れたF6Fの出現で,零戦の苦闘が始まった。こうした事態に対処するには,質的にさらに勝った新しい戦闘機を投入する必要があったが,設計の人手不足などで後継機をすぐにだすことができずに終戦となった。この間,零戦は各型合計すると約10425機生産された。

 

 米軍は撃墜された機体の残骸の回収を行っており,「真珠湾攻撃の際に撃墜された機体も数機分回収されており,まずそれらの分析が進められた。機体の構造や材質については詳細なデータが取られた。米軍を驚かせたのは機体に使われた超々ジュラルミンの強度の高さであった。それは当時,日本の航空機開発技術に対して「欧米に数年は遅れている」と考えていたアメリカの陸海軍や航空機産業関係者の目を覚まさせる一因となった」。当然ESDが主翼桁材に用いられたことは1941~42年にかけて撃墜された零戦からも把握し,Alcoaに伝えられていたと考えられる。

 

住友の超々ジュラルミンとAlcoa の7075

五十嵐博士とGHQ

住友軽金属常務取締役,研究部長であった畑栄一博士は住友軽金属技報の中で,次のように書いている。「戦後,75S のinventorに会いたいという目的で,米軍の将校が名古屋工場に現れたことがあった。五十嵐博士はすでに東北大学に去られたあとであった。アメリカは捕獲された零戦にESDの使用されていることを知り75Sをつくったとの噂は聞いていたが,五十嵐博士を75Sの発明者として正式に認めていることは,その時初めて知った」とのことである。米軍は撃墜された零戦の材料を分析し,75S を開発したことを証拠付ける貴重な証言である。

 

大平五郎名誉教授は東北大学金属工学科創立75周年記念誌(2000年,p.112)で次のように語っている。「五十嵐教授着任後のある日,アメリカの海軍研究所の高級技師とアルコア研究所の人が突然やってきた。ESDのことについて質問があり,名古屋の住友金属に伺ったら此処に居るというので仙台まで来たという。そして,教授にすぐにアメリカに来ないかという。先生の返事は唯一つ,「負けた国のものが勝った国へ行って何かいいことがあるか。断る」。その結果は毎月1~2回,ときには3回必ず2~3人の技術者が訪ねてきた。ほぼ2年は続いたと思う。先生は自分のやった仕事だけにこの次は多分これを聞きに来るだろうと話していたが,大体その予想通りになっていたのには敬服した。住友では7~8人でしていた研究を海軍研究所とアルコアでは600人でやっていたという」。

 

 1941年まで研究部長を務めた田邊博士は「戦争の末期某米機の或重要部品の巨大な鍛造品がAl-Zn-Mg-Cu系合金である事を知ったが,ESDよりもZn少なく,Mg多く確か,Crの含入はなかった。思へば是が75S或は其の初期のものであったらしい。敗戦後Alcanのカタログに依り,75Sの如何なるものなりやを知り,更にMaterials & Methods誌(June, 1949)によって其詳細を知り得た。ReynoldsのR303も同種類のものであろう。全く同系統であって其性能も大同小異であり,合せ板の表皮も落ちつく所に結着しているのは愉快である。私共はクロム添加によって時期割れを防止したが75Sに於いても恐らく然りであろう」と述べている。

 

超々ジュラルミン(ESD)と75S(7075)の相違点

1)五十嵐博士とGHQ

住友軽金属常務取締役,研究部長であった畑栄一博士は住友軽金属技報の中で,次のように書いている。「戦後,75S のinventorに会いたいという目的で,米軍の将校が名古屋工場に現れたことがあった。五十嵐博士はすでに東北大学に去られたあとであった。アメリカは捕獲された零戦にESDの使用されていることを知り75Sをつくったとの噂は聞いていたが,五十嵐博士を75Sの発明者として正式に認めていることは,その時初めて知った」とのことである。米軍は撃墜された零戦の材料を分析し,75S を開発したことを証拠付ける貴重な証言である。

 

大平五郎名誉教授は東北大学金属工学科創立75周年記念誌(2000年,p.112)で次のように語っている。「五十嵐教授着任後のある日,アメリカの海軍研究所の高級技師とアルコア研究所の人が突然やってきた。ESDのことについて質問があり,名古屋の住友金属に伺ったら此処に居るというので仙台まで来たという。そして,教授にすぐにアメリカに来ないかという。先生の返事は唯一つ,「負けた国のものが勝った国へ行って何かいいことがあるか。断る」。その結果は毎月1~2回,ときには3回必ず2~3人の技術者が訪ねてきた。ほぼ2年は続いたと思う。先生は自分のやった仕事だけにこの次は多分これを聞きに来るだろうと話していたが,大体その予想通りになっていたのには敬服した。住友では7~8人でしていた研究を海軍研究所とアルコアでは600人でやっていたという」。

 

1941年まで研究部長を務めた田邊博士は「戦争の末期某米機の或重要部品の巨大な鍛造品がAl-Zn-Mg-Cu系合金である事を知ったが,ESDよりもZn少なく,Mg多く確か,Crの含入はなかった。思へば是が75S或は其の初期のものであったらしい。敗戦後Alcanのカタログに依り,75Sの如何なるものなりやを知り,更にMaterials & Methods誌(June, 1949)によって其詳細を知り得た。ReynoldsのR303も同種類のものであろう。全く同系統であって其性能も大同小異であり,合せ板の表皮も落ちつく所に結着しているのは愉快である。私共はクロム添加によって時期割れを防止したが75Sに於いても恐らく然りであろう」と述べている。

 

2)超々ジュラルミン(ESD)と75S(7075)の相違点

住友のESDとAlcoaの75S合金の成分比較を表3に示す。Alcoaの75SはESDの米国特許の請求範囲に入る。Mnは現在では不純物元素扱いであるが,この当時,Mnは必須成分として扱われている。Cr添加の合金が特許としてでてくるのは米国特許2240940(出願1940.9.28,許可1941.5.6)26)で,その請求項は次のようである。Alcoaの出願は住友の米国特許2166495(出願1938.6.20,許可1939.7.18)が成立した後である。

1)Zn 4-6%,Mg 0.75-2.5%,Cu 0.1-2%,Mn 0.1-1%に,少なくともTi 0.02-0.25%,B 0.005-0.1%,Zr 0.01-0.15%,Mo 0.02-0.25%,W 0.02-0.2%,Co 0.02-0.2%,Cr 0.05-0.5%,V 0.02-0.2%を1種類以上添加

2)Zn 4-6%,Mg 0.75-2.5%,Cu 0.1-2%,Mn 0.1-1%,Cr 0.05-0.5%,Ti 0.02-0.25%,

3)Zn 4-6%,Mg 0.75-2.5%,Cu 0.1-2%,Mn 0.1-1%,Ti 0.02-0.25%

第二項がほぼ7075合金に相当する。実施例としてCrを添加した合金はなかった。ちなみに住友の特許135036(鍛錬用強力軽合金)ではZn 3~20%, Mg 1~20%, Cu 1~3%, Cr 0.1~2%, Mn は0.1-2%添加あるいは添加せずである。

 

表3  住友ESDとAlcoa 75Sの成分比較
表3  住友ESDとAlcoa 75Sの成分比較

 

さらに続けて田邊博士は,「今両者の優劣を詳細に比較し難いが,75Sの5.5%Zn, ESDの8%Znは種々の点で前者に有利になるは否み難く,我国で主として実用した押出形材は規格として引張強さ58kg/mm2(570MPa)以上を呼号したものであったが,75Sの54kg/mm2(530MPa)でも実用上何等差支えないであろう。ここら当たりに徒に強力を求める我国の通弊をみる。我国では合せ板はほとんど実用されなかったが,米国では必ずや相当に使われていると思ふが,其実態を知りたいものである。尚又米国では0.3mmの板も規定されているが,私共は之を0.5mmに止めた,組成及製造方法の差異はあるが,彼に一日の長があろう」。

 

ESDの組成は,現在でも鋳造での鋳塊割れや押出での押出性など生産性で非常に問題が多く,当時の技術でよくこれだけ生産できたものと感心させられる。米国は鋳造性や圧延性,押出性などの生産性を重視したのか,あるいは応力腐食割れを考慮したためか,Zn量をESDより大幅に減らしている。また薄板の圧延についても,米国から導入した圧延技術なので,この生産技術面では日本の技術は相当遅れていたといわざるを得ない。材料規格の件では,当時の空技廠からの無理難題な要求に応えながら成分を決めていかざるを得ない状況がよくわかる。しかし,この要求がなければ世界に誇る材料もできなかったであろう。これは何時の時代も変わらない。

 

「航空機工業禁止の現時日本ではこの種優秀合金は恐らく活用の道はなかろうけれど,兎に角斯界の歴史に些少なりと足跡を残し得た事を五十嵐博士ら舊同僚諸君等と共に喜びたい。尤も,ESDといえども全然新しいものではなく,独のSander合金,英のE合金等先哲の業績を再検討し,E-S-D系を組織的に開拓して生まれたものであるが,少なくとも其耐時期割れ性増進のためクロム添加の如きは,五十嵐,北原両氏の前人未踏の偉業なることを付記して置く」と田邊氏は結んでいる。戦後の航空機用高強度アルミニウム合金材料の主要な成分はESDの成分と同じ方向に開発が進んでいる。

 

1960~1980年代,Alcoaの航空機材料開発の中心的役割を果たしたJ.T. Staleyは1989年,”History of Wrought- Aluminum-Alloy Development”の中で,Al-Zn-Mg-Cu合金について,Alcoaは 1940年7076(Al-7.5Zn-1.6Mg-0.7Cu-0.6Mn)を鍛造用合金として開発し,2025合金(Al-4.25Cu-0.8Si-0.75Mn)より耐摩耗性や疲労が優れているのでプロペラ・ブレードに用いた。1938年までにラボでは板での応力腐食割れの問題は解決できたので,X74S(Al-5.2Zn-2.1Mg-1.5Cu-0.4Mn)を主翼の一部に用いたが,この合金板材はフィールド試験で,時効材を加工して用いると応力腐食割れに敏感になることが判明した。このため,高融点の微量添加元素の影響を調べ,クロムを0.2から0.35%含む合金が応力腐食割れに強いことがわかった。強度も少し向上させて耐応力腐食割れ性にも良好な,今日良く知られている7075-T6を1943年開発したと述べている。その後に,“Interestingly, chemical analysis of sheet from a downed Japanese Zero fighter aircraft disclosed that the composition was almost the same as that of 7075.”と書いている。この新合金はすぐに機体の設計に反映され,7075-T6板はB-29 Superfortness後期モデルの主翼上部のスキン材やストリンガー材として用いられた。

 

Alcoaの研究者がZero Fighterについて記述したのはこれが初めてではないかと推察される。それまでのAlcoaの研究者は,7075はAlcoaの長年の研究の成果だといって,住友のESDのプライオリティを認めてこなかった。発明というのは,大概同じ時期に同じような研究をしているので結果的に同じ結論に達することはホールやエルーの発明をみても理解できる。しかしながらどのような研究をしてAlcoaが7075を開発したのか公表されたデータはほとんどないのが実情である。勿論,特許でのESDの優先性は明らかである。

 

産官学共同研究によるHD合金とND合金

1)HD合金

HD合金とND合金については,西村教授が「随筆軽合金史」(第34,35回)に詳しく書いているので,それを紹介する。 

1941年11月下旬,本多光太郎教授などが主宰者として,陸軍が後援で日本学術振興会の航空機に関する総合研究をするための特別委員会の準備会合が東京の如水会館で開かれた。第3小委員会として強力軽合金に関する研究部会が企画され,本多博士が委員長として,大学側から東北大大日向一司教授,早稲田大学石川登喜治教授,京都大学西村秀雄教授,製造業者は住友金属,古河電工,神戸製鋼の三社であった。陸軍が主宰したため海軍からは協力がなかったとのことである。

 

第一回の会合は1942年4月,初空襲の最中開催された。西村教授は,「研究方針を定めることになり,どうするかと云って別に案がなかったから,銅を用いないで超ジュラルミンの代用になるような合金を造ってはどうかと提案した。銅は軽合金に使用される量はさほど多くないが,しかし我国の銅資源は必ずしも豊富とは云えない,少しでも節減が出来るなら時局に役立つではないかという考えであった」と述べている。その結果,Al-Zn-Mg系合金を取り上げることとなった。超ジュラルミンと同等の強度で,焼入れして常温で時効硬化を示す用な材料をこの系統の合金で造ることが出来るか検討した。まず成分の目標を定め三社が試作してそれを検討することから始めた。

 

住友金属からZn 6%, Mg 2%, Mn 0.8%, Cr 0.25%を目標として造られた板は引張強さ440MPa (45kg/mm2),伸び18%を示し,超ジュラルミンの規格値(引張強さ420MPa (43kg/mm2) 以上,伸び14% 以上)を満たしたが,焼鈍材は規格値以上となり加工性に問題があったので,「もうこの研究はこれで打ち切って新しい方向に向かうことにしようかと考えたが,折角研究を始めたのであるから,鍛造材とか押出形材を造ってみてはということになって,その試作をすることにした」。古河電工でのAl-6%Zn-2%Mg-0.75%Mn-0.35%Cr押出材の試作結果は非常に良好で,引張強さは490~530MPa (50~54kg/mm2),伸びは12~15%,超ジュラルミンSDの規格値を十分満足していた。

 

この時,西村教授は「押出が容易で,その速度を数倍にしても差支えないことを知った。これは予期しなかった一つの発見であった。当時,押出形材の製造が航空機製造の一つの隘路となっていた。急に押出機を製造することは困難であったから,若し押出性能の良い材料があったならば,それだけ製造能力が増すことになる訳であるから,注目すべき発見であった」と述べている。押出性能に関しては,神戸製鋼でも実験をし,超ジュラルミンの2倍程度の速度が得られた。この合金はHDということに話が陸軍からの提案でまとまった。これは本多博士が委員長であった関係でHのイニシャルを取ったものである。こうしてHD (Honda’s Duralumin)という合金が生まれた。化学成分は表4に示す。この合金は,後述するが,戦後,三元合金として新幹線や二輪車などに適用され大きく発展することとなる。

 

表4 HD (Honda’s Duralumin) とND (Nippon Duralumin) の化学成分(mass%)
表4 HD (Honda’s Duralumin) とND (Nippon Duralumin) の化学成分(mass%)

 

なお,住友でも超々ジュラルミンESDの押出速度が1~1.5m/分で超ジュラルミンの押出速度2~2.5m/分と比べて約半分であった。このため,ESDの生産性を上げるのが急務となっていた。「強度はESDより多少低下しても,押出速度の高いものを」という発想で1943年開発されたのがNSDである。NはNagoyaのNからつけた。ESDの銅量2%を1.1%に減らし,Mg量を少し増すと3m/分の速度が得られたが,強度が出ないとの問題がでた。これは不純物のけい素量の増加に起因したことがわかり亜鉛量を増やして実用化した。NSDの成分をESDと比較して表5に示す。1944年の航空機規格7222にチ263と規定された。

 

表5 NSDと超々ジュラルミンESDの化学成分(mass%)
表5 NSDと超々ジュラルミンESDの化学成分(mass%)

零戦のプロペラ

固定ピッチと可変ピッチ・プロペラ

エンジンのパワーを推進力に変えるのがプロペラの役割である。初期の飛行機には木製2枚ブレード(羽根,翅,翼)で固定ピッチというのが用いられていたが,その後ブレード数が増し,素材も金属が主流となり,ピッチ(回転方向に対する角度,ブレードのねじれぐあい)も可変となった。

 プロペラの回転速度は,始動から巡航,最大速度時に至るまで大きく変化するため,最高速で飛ぶときのみフル回転し,全馬力が出せるように作られていたため,最高速で飛ぶとき以外,たとえば離陸のときや上昇飛行などのように,プロペラにより負担がかかるときは,エンジンの回転が下がってしまい,全馬力を出すことができない問題があった。艦載機では離陸時にエンジンのパワーを推力に変化できず,滑走距離が長くなってしまう欠点があった。また堀越によると,「戦闘機の空戦中は,最小半径旋回中のような低速から,急降下中のような高速まで,不断に速度を変えて飛行するものである。しかも,上昇や急降下や加速が空戦の生命であり,低速でも高速でもエンジンの許容馬力一杯をつねに使えることは空戦性能を非常に高める」上で重要であった。このため,図5に示すように低速域ではプロペラの回転軸に対し小さな角度のピッチで,高速域では大きな角度のピッチとなるピッチ変更の可能なプロペラが研究された。

 

 

図5 定回転プロペラのピッチ角度14) (TOWN MOOK, 零式艦上戦闘機と人間堀越二郎,徳間書店刊,(2013),78より転載)
図5 定回転プロペラのピッチ角度14) (TOWN MOOK, 零式艦上戦闘機と人間堀越二郎,徳間書店刊,(2013),78より転載)

最初に開発された可変ピッチは飛行操縦者のマニュアル操作で低速域と高速域の二段階に切替できるもので,アメリカのHamilton Standard Propellers Company(以下,Hamilton社)が実用化した。零戦にはこの二段可変プロペラが採用される予定であった。しかし,Hamilton社は,飛行中のいかなる状況下でもエンジンに過度の負荷がかからぬように,ピッチを自動で連続的に変化させて回転数を常に一定数に保てるようにした無段階ピッチ調整が可能な定回転プロペラ(定速プロペラ)を開発した。この結果,航空機が離陸し,一定の高度に到達するまでに要する所要時間と飛行距離は従来方式より短くなった。零戦にはこの最新の定回転プロペラが導入された。ピッチ角は二一型では23~43°で,五二型では29~49°となっていた。零戦の高性能の秘密は,卓越した機体設計と中島製「栄」エンジンに負うところ大だが,この定速プロペラの存在抜きには語れないこともまた事実であろう。

 

その後,爆撃機などのようにプロペラが複数装着された機体では,エンジンが停止したときに抵抗にならないよう,ブレードを流れと平行にするフルフェザープロペラや,エンジン出力の増加にあわせたブレード枚数あるいはプロペラ直径の増加などプロペラの性能の向上を図った。またプロペラのブレードも十二試艦戦では2枚だったが,エンジンとプロペラの振動と固有振動が共鳴して,エンジンの回転数に関係なく相当の振動があることがわかった。そこで零戦では3枚に増やすことで振動は半減した。しかしながら,日本陸海軍は,軍用機にとって性能発揮の源であるプロペラ,それも金属可変ピッチ・プロペラに関しては,海外の技術に依存して独自の研究開発をほとんど行ってこなかったことがその後の米国との技術力との差になって表れた。

 

プロペラ・ブレード素材の鍛造

図6 25Sの高温時効特性
図6 25Sの高温時効特性

鍛造素材としては25S(2025)が主として用いられた。この合金はAl-4.4%Cu-0.8%Si-0.75%Mnで1919年から1920年にかけてAlcoaのJeffriesとArcherによって開発され,1921年の早い時期に鍛造品として実用化された。この合金はMgを含まないためにジュラルミン17Sよりも熱間加工性に優れ,17Sで難しいような鍛造品もできた。航空機のプロペラやコネクティングロッド,機関車のサイドバーなどにも使用された。この合金は17Sと違って室温時効を示さず,高温時効で硬くなり,強度は17Sと同等である。T6材で引張強さ400MPa,耐力260MPa,伸び19%である。図6は西村教授の著書に掲載された25Sの高温時効曲線である。耐食性に関しては薄い製品では粒界腐食が問題となるが,厚い製品ではほとんど問題とならない。日本の戦闘機のプロペラには25S(住友呼称R2)以外に17S(住友呼称D2)も用いられた。

 

住友では1931年,固定ピッチのプロペラ・ブレード素材の鍛造を開始した。重量110kg程度の鋳塊を,四工程で再加熱を繰り返し羽子板状に自由鍛造して製造した。1934-1935年頃はブレード部を長さ300mmごとに区分けし,それぞれ上下一対の割り型を用いて部分型打ち鍛造を行う「割り型鍛造」を行った。1938年にはドイツ製10トンドロップハンマーと住友機械製の鍛造ロールが設置され,ブレード部のロール鍛造を行い,この粗鍛造材を型に入れてドロップハンマーで型鍛造する「総型鍛造」を行った。1940年,米国製15トンエアーハンマーが導入され,大型プロペラ・ブレード素材の鍛造も可能となった。当時の製造工程は次のようであった。図7に各工程での鍛造素材の写真を示す12)13)。

(1)加熱水冷法による大型鋳塊を八角形断面に水圧鍛造。

(2)溝ロール圧延で直径150mm丸棒。長さ1.1mに切断。

(3)先端をロール絞り加工。外皮を10-15mm切削除去。

(4)ロール鍛造後,総型鍛造三回。

(5)ボス部据え込み。

(6)熱処理後矯正。

 

図7 プロペラブレード用素材の鍛造工程の一例(1942年8月)(各工程は切断,施削加工を除き,すべて熱間加工である。型打ち鍛造は各回ごとに加熱し,またバリ取りを実施している)
図7 プロペラブレード用素材の鍛造工程の一例(1942年8月)(各工程は切断,施削加工を除き,すべて熱間加工である。型打ち鍛造は各回ごとに加熱し,またバリ取りを実施している)

プロペラの生産

図8 航空機用プロペラ金型,上型・下型一対 (㈱UACJ名古屋製造所正門玄関に展示されている)
図8 航空機用プロペラ金型,上型・下型一対 (㈱UACJ名古屋製造所正門玄関に展示されている)

住友伸銅所がプロペラ・ブレード素材を初めて鍛造したのは1925年三菱内燃機製造㈱からの依頼によるものである。このプロペラは厚板素材をエアハンマーで自由鍛造し,竹とんぼの羽根のように,ブレード・ボス部一体の形状としてから,両ブレード部を捩り,熱処理後削りだしたもので,その中央にエンジンのプロペラ軸が取り付けられた。このプロペラは陸軍の八七式軽爆撃機に搭載された。1928年固定ピッチ・プロペラ素材の鍛造を受注したのがきっかけで鍛造素材の生産が始まった。1931年,中島飛行機がHamilton社と技術提携し,固定ピッチ・プロペラの製造を始めたが,そのブレード素材はHamilton社からの輸入に頼っていた。海軍は飛行機の国産化と自給体制を望み,1932年住友伸銅鋼管㈱が金属プロペラ完成品を生産することとなった。このときに,中島飛行機がHamilton社から譲渡された固定ピッチ・プロペラ製造に関する権利と加工設備一式が伸銅所に譲渡された。1933年伸銅所は年産300本のプロペラ工場を建設し,年末には800本までできる設備を増強した。1934年Hamilton社から可変ピッチ・プロペラの製造販売権を入手し,1938年から定速式回転プロペラの生産に移行し零戦に採用された。プロペラ工場は伸銅所から独立してプロペラ製造所となった。その後,神崎,静岡,津にプロペラ製造工場ができた。鍛造素材は伸銅所と名古屋製造所で製造された。図8は,現在,UACJ名古屋製造所入口に保存・展示されているプロペラ・ブレードの型鍛造の金型である。

 

小括

零戦は日本が誇る航空機であった。この航空機の軽量化に寄与したのが,五十嵐らが発明した超々ジュラルミンである。非常にすばらしいタイミングでの零戦との出会いである。海軍からの要請があったとはいえ,日頃からの研究の積み重ねがないとこのようなニーズに合致した合金開発はできないのが現実である。零戦もまた,軍の要求に非常に合致した航空機で戦争の緒戦での戦果はめざましいものがあり,戦後も零戦伝説として称賛されている。しかしながら,その負の側面も見ておく必要があるであろう。当時の軍の考え方もあってか,初期には防弾に対しては考慮がなされていなかったので「開戦前からの熟練した優秀なパイロットを何百人も失う」結果となった。防弾がないために軽量化が徹底できたという側面も否定できないが,堀越も防弾に関して「零戦の最初の計画要求に,一行たりとも触れられていなかった」といっている。

 

さらに日本軍の「始めから終わりまで零戦に頼らざるを得ない事態を招いた」技術政策のまずさに対し,米国海軍は零戦から制空権を奪うべく技術開発力を集中して,零戦の二倍近い馬力のエンジンを積んだ新型戦闘機F6Fを開発した。堀越は質的にも量的にも圧倒的なF6Fから「雨のような銃弾を浴びせられ,われわれが丹精をこめて作り上げた零戦は,つぎつぎに遠い南方の紺碧の海に散っていった」と語っているが,ここにはわが子を無残にも亡くしていくような心境が表れているように思える。零戦が特攻隊の飛行機として利用されることを知ったときは,「なぜ零戦がこのような使い方をされなければならないのか」,「戦争のためとはいえ,ほんとうになすべきことをなしていれば,あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないか」と語っている。

 

 戦前日本の傑出した技術者である五十嵐勇と堀越二郎,ともに外国の物まねをせずに独自の発明・技術で超々ジュラルミンと零式艦上戦闘機を生み出し世界を凌駕したことは世界に誇るべきことである。現在に生きる我々もその精神を学んで,徒らに外国の理論や技術の模倣に終わらず,諸外国の成果をも取り入れながら独創的な理論や技術を編み出していくことが今後の日本の発展に不可欠である。